Profile

前見文徳
       撮影:住宅設計.JP

前見 文徳 / Fuminori Maemi

資格

管理建築士、一級建築士、応急危険度判定員

略歴

1975年、宮城県多賀城市の坂総合病院にて次男として生まれる

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同県、東松島市の野蒜海水浴場の沿道、民宿が立ち並ぶ沿道の和風の平屋で高校まで暮らす。幼稚園は1年のみで公立小学校へ。小学校ではサッカー部(サイドバック)、中学はバスケ部(ガード)で膝を痛めたため、高校ではバスケを断念。運動も好きだったが、絵を描いたりゲームシナリを書いては応募してみるなど作るのが好きな少年時代。高校入試では宮城高専を考えていたが、具体的に何がしたいか定まらず、父から普通科で考える時間を見つけてもいいだろうと提案され、兄と同じ県立石巻高校に入学。高校では故小畑洋一郎監督(東北大卒の倫理の教諭。革ジャン姿でハーレーで通勤するご老人)の甘い勧誘に軽い気持ちで乗っかり、県内屈指の名門のウエイトリフティング部に入部。膝の手術入院とリハビリを行いながら3年間通院し、部活を全うした。筋力を補う目的だったが、体型や体質にあっていたのか、メキメキと成績を上げてしまう(新人戦優勝、東北大会優勝、インターハイ9位、秋季国体6位入賞など)。商船乗りだった父は年中家にいなく、愛犬1頭とほぼ母子家庭のような状態。両親を喜ばせたかったのだろうと本人は回顧する。3年の秋まで級友が受験シーズンに入る中、昼食も減量食で済ますなど、ストイックに減量しながら後輩と部活を行う。大学入試は受験勉強時間も気力もなく、絵を描くことや、実家の増築の際に、よく大工の働く姿を見るのが好きだったことなど、つくることの楽しさを回想し(ガンプラやラジコンも嗜んだがハマるほどではなかった)、建築学科卒業を控える兄の影響も手伝って建築が学べる大学を選ぶ。

1994年、宮城県石巻高等学校卒業

一般入試は諦めたが、内申点は良かったらしく、また立命館大学からスポーツ推薦も来ていたが、練習中にヘルニアを患ったことと、あくまで部活は在校中だけの経験と入部以来、固く決心していたので、京都への憧れはあったが断る。ある日、教室の後ろに貼られた1枚の指定校推薦募集を目にし、武蔵工業大学(現東京都市大学、世田谷区)に入学。試験は面接とデッサンで、ル・コルビュジエの「ロンシャンの礼拝堂」を描く。はじめて「建築の自由さ」や構造デザインという美学を知る。大学では、海外旅行の一つもせず、日夜製図、学生コンペの挑戦、高額専門書籍である『GA JAPAN』や『新建築』『住宅建築』のようなセレクションとしての専門書読破はもとより、同校OBのルイス・カーンの弟子である新居千秋先生や、当時「建築を粒子化する」と言い始め「あぁ、その気持ちわかる」と興味をいだいた隈研吾さん、国立図書館関西館のコンペで勝利された陶器二三雄さん、故小嶋一浩さん率いる、学校建築等で定評のあるシーラカンスなどのアトリエ事務所から、日本設計のような大手組織事務所、一般的なバイトまで明け暮れた。あまりにも薄給なのにアイディア搾取・労働搾取されそうな事務所では生活も成り立たないので行かなかった。建築を学ぶとはこんなにお金がかかるのかと、心配と両親へ気苦労を掛け続けたが、踏み込んだからには寝る間を惜しんで会得しようという気持ちで過ごした。設計課題の講評はほぼ常にA+。新居千秋氏からはたくさんのスピリットを教わり、ご自邸の設計補助に携わることができ、完成後も見学させて頂いたときの感動は今も覚えている。また、建築物は設計一つで犯罪の温床を生み出すことにもなり得るのだから、真剣に向き合わなければならないという教えも、21世紀においては「犯罪機会論」のような発生場所に着目する視点を先取りした教育を受けていたのだということも新鮮な振り返りができる。さて、高評価をもらいながらも課題がマンネリズムであることに気づき、面白みを失っていくが、ある日、卒業設計をどうしようと悩む日が続き、図書館で手に取った、確か黒川紀章さんの『共生の思想』中心にメタボリズムを読み解きながら、ただ闇雲に設計するだけの授業風景に疑問を感じ、同時に飽和する眼前に拡がる都市建築や商業ビルに行き詰まりを覚えたと思う。卒業設計では建築物をデザインせず、自由な土地の区割りのデザインと地区計画を前提とした木密住宅の建て替え計画のプログラムを提案(提出物は現存せず)した。建築物を持ってこなかった中、採点する教授陣も(今まで評価が良かっただけに)落胆したようだが、都市計画系の教授の温かい言葉に救われる。その後、建築とはどうあるべきなのだろうかと問い続け、就職難の時代が訪れたことも考慮した上で外部の大学院を目指し東京藝術大学大学院へ。

1998年、武蔵工業大学工学部建築学科(現東京都市大学)卒業

藝大では益子研究室に所属。先輩に石上純也氏がいる。主に「境界」がテーマだった2年間だった。『Light Construction』Terence Riley著、や『ギブソン 生態学的知覚システム 感性をとらえなおす』 J.J.ギブソン著 佐々木正人・古山宣洋・三嶋博之 監訳など人と環境の関わり方を中心に学ぶ。その中で、住宅地の緑地・農地と住宅の境界をデザインし直す試みとして『1/n boundary space』を制作。セントラル硝子国際設計競技で二選となる優秀賞を受賞。そこから修士設計では住宅地の風景としての住宅の公共性について考察し、外観のあり方を発表した。今思えば少し難易度の高いテーマ設定で、製作中に合格できるかの不安からはじめて急性胃潰瘍も患ったが、自分に身近で関心のあるテーマを探した結果、無事修了できた。2年はあまりにも早く、継続して学びたい気持ちもあったが就職を選んだ。

2001年、東京藝術大学美術学部建築科大学院修了

独立した現在も、どのようなスケールであっても「取り巻く環境とは、常に境界をどのように捉えるかの連続である」という考えが根底にある。

東日本大震災について

 

本災害によって、多くの犠牲が生じた。東北で暮らすということは地震と付き合っていくことだと幼少期の宮城県沖地震で刷り込まれたと言ってもよい。海の怖さを知る商船エンジニアの父からは、「津波が来たら家は終わりだからとにかく逃げろ」と言われ、TVから流れるチリ地震の津波映像と共に増幅され、刷り込まれた(ではなぜそんな沿岸に家を構えたというのは一般的に聞く批判ではあるが、父の実家の近くに住んでおきたいという想いのほうが強かったのだろう)。そして、前見の実家もまた大津波によって流失し、生家も母校も友人も知人も、どんな子どもだったか(活発で明るい)知ってもらうアルバムも、家で保管しきれず実家に預けていた専門書の一部や大学の卒業設計作品、課題の図面や模型の数々も失った。
阪神淡路大震災ではまだ学生で、何ができるのかも、身動きもできず、映像から流れてくる悲しみをただただ受け入れることしかできなかった。
3.11では発災直後の家族安否不能から現地入りし、安否確認まで丸2日を要した。その後幾度となく往復を繰り返し、仮設住宅への入居、市街移転支援、NPO法人や学生らとの連携による仮設住宅の環境改善支援、子どもアート支援、再建支援など、進行中の実務と並行する中、施主の前で涙することもあり、倒れるのではないかと思うくらい動けたのも、動ける年齢もあっただろうが阪神淡路大震災のときの自分への反省の方が大きく、動ける人も動けない人も励ましあったという意味では、後にも先にもオールジャパン体制というのは3.11だけではないかと現時点で振り返る。この出来事は前見の建築に対する姿勢、視野を一層広げ、さらには30代後半からの政治・行政の重要さ、情報の読み方・発信の仕方(リテラシー)も飛躍的に大きな学びを得た時期であり、その後の実務にも大きな影響を与え続けている。

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職歴

2001、佐藤光彦建築設計事務所(プロジェクト契約)
2001-2002、有馬裕之+アーバンフォース 東京オフィス
2002-2003、株式会社夢・空間研究所
2004-2007、SOUP DESIGN Architecture
2007-、前見建築計画一級建築士事務所設立

資格・講習

2007、一級建築士|第 329270 号
2020、建築士定期講習|第 T202F-10313L 号
2017、第 T172F-11656X 号
2014、第 T142F-12376M 号
2011、第 T112F-13057M 号
2011、管理建築士講習|第 112F-10486L 号
2020、住宅省エネルギー技術者講習|R019-13-C-1457
2019、応急危険度判定員(東京都防災ボランティア登録)|No. 19-1-24916